土用丑の日をポジティブに考える
季節を彩る食
夏バテを感じる季節になると、ウナギを食べたくなる。
もちろん、夏バテ対策の食事はウナギだけではない。
熱帯夜が明けた朝、目が覚めると汗びっしょりだった日は、なんとなく一日が気怠い。そんな日の晩はなんとなく、肉やパスタよりは中華や魚料理など、ニンニクの香りや塩味が効いたものが恋しくなる。僕はもっぱら日高屋に行って餃子定食やニラレバ定食を食べると元気が出てくる気がする。
でもやっぱりウナギは夏の王様だ。
ウナギと言えば蒲焼き一択。あの蒲焼きのタレがご飯に染み込み、肉厚のウナギがドーンと白米の上で映え、山椒の香りが嗅覚を刺激する。
「やっぱ夏はこれだよな~!」
と、ちょっぴりとした贅沢と、味覚と食欲が満たされている感覚をいっぺんに味わえるのがウナギのいいところだ。
僕の実家は比較的季節の行事を大事にする家庭だったので、土用丑の日の前は半夏生に必ずタコも食べているのだけれど、それとは比べ物にならない非日常感も相まって、ウナギを食べるということはやっぱり特別な事なのである。
ウナギの死滅回遊
そんなウナギは国際自然保護連合(IUCN)によって絶滅危惧種(EN)に指定されていることは知っている人も多いだろう。
Twitterなんかを見ていると、「日本の食生活を否定する陰謀だ」なんて事を言っている人が少なからずいることには驚かされるけれども、ウナギは尋常じゃない減り方をしている。
水産庁のオフィシャルな資料でも、シラスウナギの漁獲量は1943年頃まで3,000トンあったものが、2019年には3.7トンまで下がっている。
先に言っておくと、日本は世界でも水産資源の管理ができていない国だ。水産資源管理ができていなくて「取り過ぎた」というのは前提としてあるが、ウナギが減ったのはそれだけが理由じゃない。
有名な話だが、ウナギは養殖技術が確立されておらず、産卵から稚魚になるまでは養殖ウナギも全て自然界に任せている。それはウナギがマリアナ海溝のどこかで生まれ、そこから海流に乗って日本にやって来て、食べられなかった個体がまた海流に乗ってマリアナ海溝で産卵するというサイクルの中で生きている生物だからだ。
養殖と言ってもこの産卵のサイクルに人間は今のところ介入できていない。養殖ウナギとは、日本にやってきた稚魚を育てているに過ぎない。
ところがいま、気候変動によってこの海流の動きが乱れる事が多くなっている。マリアナ海溝で生まれた稚魚が海流で流され、日本にやってくることなく死滅してしまう事態が発生しているのだ。
ウナギの回遊には貿易風が重要な役割が担っていると言われている。貿易風が強すぎると北上しすぎて黒潮反流の渦に取り残され、弱すぎるとミンダナオ海流に乗ってウナギが生息しないフィリピン等に流されて死滅するのだという。
ウナギ一つをとっても、生態系は微妙なバランスによって成り立っていて、そのバランスの中で一つの種が存在しているのだという事を感じる。そして人間はその恩恵を受けている事に感謝するしかない。
とにかく、ここで言いたいのは日本の水産資源管理はダメだけど、それだけじゃなくて気候変動によってもウナギは数を減らしており、本当にヤバイんだということだ。
土用丑の日否定論
そういう状況の中、ネット上では自然保護の観点から土用丑の日のウナギを食べる風習を否定する声が上がり始めた。もっとも、こういう声が上がった一因は日本の水産資源管理への指摘を「日本へのアンチ」と読み違えるネトウヨ的な人がネットには結構いて、それに対する過剰な反応という側面もあると思う。
ただ、僕は自然保護活動もやってきた人間だが、「土用丑の日」は否定しようとは思わない。なぜなら、「伝統文化と自然共生は両立できるもの」だと思っているからだ。
発信すべきは「ウナギを絶滅させないために土用丑の日をやめよう」ではなく、「土用丑の日の日を守るためにウナギを守ろう」というメッセージだ。そのためにはまずは漁獲量を制限しないことには始まらない。土用丑の日を守りたい人は水産庁の漁獲制限に厳しい目を向けてほしい。そしてその制限の根拠にもツッコミを入れる習慣を持って欲しい。
ウナギが採れないなら安く食べられるようにする必要はない。ファストフードでウナギが食べられる必要だってない。老舗の料亭やウナギ屋さんで、高級食材として残してもいい。
とにかく安価に大量消費ができるものであるという消費者と市場の感覚にメスを入れなければ、ウナギは救えない。
文化を守るためにも生き物を守る
ウナギは土用丑の日の主人公だ。ウナギの消失は一つの日本文化の消失を意味する。
こういう話をすると僕は伊勢神宮の朱鷺の羽の話を思い出す。
伊勢神宮の式年遷宮はご存じの通り20年に一度、神社の社殿から神宝までをも造り変える行事だ。20年に一度それを行うことで、太古から続く日本の伝統技術が減少されてきたともいえる。
その神宝の一つ、須賀利御太刀には朱鷺の羽が使われている。しかし日本産のトキは2003年に最後の個体、キンの死亡をもって絶滅した。現在、中国産トキの移入によって野生復帰が試みられているが、須賀利御太刀の朱鷺の羽は2013年まではある篤志家によって寄贈された日本産の朱鷺の羽が使われていたそうだ。
日本産朱鷺の絶滅は、伊勢神宮の神宝の素材の消失をも意味したのだ。
伝統文化とはその土地の風土との共存の中で生まれたものだ。
そうか日本の伝統文化を守るために日本の風土と共生する社会、つまり自然と共生する社会への歩みを日本は進めて欲しい。
ウナギと共生するための土用丑の日にしていかなければならない。
1990年、としまえんと子供たち
練馬区というのは東京23区の中でも、どこか「東京じゃない空気」が漂う街だと思う。
その空気の発生源は練馬大根をはじめとした農業、石神井公園と照姫まつり、雰囲気がどうしてもあか抜けない西武池袋線、そしてとしまえんだ。
僕のような東京都西北部に住み、1990年代が児童期だった世代にとってのとしまえんは、あこがれだった場所であり、地元のシンボルのような場所だった。
あのあたりに住んでいれば、親はまずはディズニーランドではなくとしまえんに子供たちを連れて行くのだが、そうでなくても幼稚園の遠足で行くこともあった。としまえんに行くことは、いわば小学校に入る前の通過儀礼のようなものだった。
幼稚園の遠足ではもちろん絶叫マシンには乗れなかったが、「模型列車」に乗り、「昆虫館」に行けば大体の男の子たちは満足をした。
模型列車は本物さながらの線路が敷かれた武蔵野台地の起伏の中を駆け抜け、昆虫館では普段見ることが無い貴重で鮮やかな昆虫の標本を見ることができ、まさに男の子にとっては「鉄道」と「虫」という幼稚園の二大ブームを満喫することができる場所だった。
女の子はカルーセルエルドラドという、ドイツのミュンヘンで作られた世界最古クラスのメリーゴーランドが織りなす夢の世界に酔いしれた。
そしてよく覚えているのが、最後に幼稚園の先生たちがトップスピンという絶叫マシンに乗っていたことである。
なぜか若い先生たちが子供たちに手を振りながらマシンに乗り込み、マシンの稼働とともに悲鳴を上げる姿を副園長先生と笑いながら見た記憶は今でも鮮明だ。
小学校に入っても、地元の子たちの夏休みの一大イベントは友達ととしまえんに行くことであり、遅かれ早かれそこで初めて絶叫マシンを体験するし、家族でプールに行くとなれば流れるプールとハイドロポリスがそびえるとしまえんはその候補の筆頭となった。
としまえんは夏の間は水着でプール外のアトラクションに乗ることもできるので、本当に一日中遊べるパラダイスだった。
そして家にいても、8月にはとしまえんの花火大会があるので、練馬区民の視線はとしまえんに向くことになる。
としまえんまで行かなくても、基本的に練馬区は低層住宅街なので、僕が住んでいた家の3階の小窓からは花火を見ることができた。
中学を経て、高校、大学となるといつの間にかとしまえんに行かなくなった。
特に大学になると、テーマパークと言えばディズニーランドか富士急ハイランドになる。東京の別の区からも集まる高校、都外出身者もいる大学の友人と行くなら、地元のテーマパークではなく、世界的に有名なテーマパークか、トップレベルの絶叫マシンがあるところになってしまうのだ。
だが、決してとしまえんを忘れていたわけではなかった。としまえんは僕の中であくまで、地元の、子供の時の思い出の場所だったのだ。
アニメのドラえもんなどと一緒で、「自分は成長して離れていっても、きっと自分が大人になって子供が出来たら戻ってくる」と、そう思っていた。としまえんはずっとあって、地元の子供たちのあこがれの場所であり続けると、そう思っていた。
しかしそれは思い込みだった。
2020年8月31日をもって、としまえんの閉園が決定。
たしかに以前から噂はあった。都が防災公園を作りたがっていること、そしてワーナーブラザーズがハリーポッターのテーマパークを作りたがっていること。でもそれはあくまで噂として聞き流していたし、「まさかとしまえんが無くなるわけがないだろう」と思っていた。
思えば、シャトルループやトップスピン、フライングカーペットといった人気絶叫マシンは「老朽化」を理由に修理されることなくいつの間にか消えていた。
「アフリカ館」があった場所はトイザらスや庭の湯に変わっていた。
僕が大人になるまでの間としまえんは大きく変わり、僕に子供ができる前にとしまえんは閉園する事になったのだ。
最後にもう一度行きたい。
そう思った僕はコロナ禍と分かっていたが、2020年の7月中旬、としまえんを訪れた。
(つづく)