『古城の塔』の保全・活用キャンペーンを立ち上げました

 以前「としまえんのあるところ ~練馬城ってそもそもなんなの?~」という記事でも紹介したが、としまえんには築90年以上の歴史を持つ建物がある

hidephilax.hatenablog.com

 それがゲートの左手に奥にあった「木馬の会事務所」の建物だ。立地的にはハイドロポリスが聳える練馬城址の城山の中腹に位置している。

 この建物については、前述の記事を書いた時点では築90年以上の建造物である事は分かっていたが、設計者も知らなければ文化財等にも登録されていないので、ただ「歴史があるイイ感じ建物」くらいに認識していた。そしてなんとなく、「この建物は残すべきだよなぁ」と思いつつも、「自分が好き」以外に明確に保全すべき根拠がない状態だった。

 しかし、色々調べていくと文化的な価値をきちんと調査・整理すれば、行政に認めてもらえる可能性のある施設であると思うようになってきた。
 そこでこの度、change.orgに下記のキャンペーンを立ち上げる事にした

chng.it

 今回はその建築物についてとキャンペーンについて、お話をしていきたい。

 

目次

 

建物の名前と完成年は?

 石神井公園ふるさと文化館の特別展「夢の黄金郷遊園地展」の冊子に掲載の資料を確認していくと、その当該建築物の名称は各資料ごとに以下のように書かれている。

(年)     (資料名称)     (建物名称)
昭和3年    練馬城址豊島園全景  古城ノ食堂
昭和5~7年頃 新装の豊島園案内   古城の食堂
昭和5~7年頃 練馬城址豊島園全景  古城の食堂
昭和7年    練馬城址豊島園全景  古城の食堂
昭和10年   豊島園絵葉書     古城の塔
昭和13年   練馬城址豊島園絵葉書 古城ノ食堂
昭和13年   豊島園全景      古城の喫茶
昭和13年   豊島園絵葉書     古城
昭和26年   豊島園園内案内図   展覧会場・喫茶
昭和30年   たのしい遠足案内   古城
昭和30年   豊島園園内案内図   古城・喫茶
昭和30年代  豊島園絵葉書     古城
昭和30年代  豊島園園内案内図   古城ホール
昭和45年   豊島園案内図     古城ホール
平成28年   Toshimaen Guide&Map 木馬の会

 名称は時代によって変わっているが、少なくとも昭和3年にはこの建物が食堂として利用されていたことが分かる。
 また、名称が書かれていないので上記には並んでいないが、大正15年の開園時の「練馬城址豊島園全景」にはかなり簡略された形で当該の建物と思われる建築物が描かれており、開園時に既に建っていた可能性もある。正確な完成年については現在引き続き調査していく。
 この建物の名称はまとめた通り初期は「古城の食堂」「古城の塔」、昭和10年頃から30年頃まで「古城の喫茶」、「古城」、あるいは「展覧会場」と「喫茶」と別に書かれる事もあり、昭和30年以降に「古城ホール」、そして近年は「木馬の会」となった。
 恐らく当初、古城というのは「練馬城址」を指していたと考えられるが、昭和10年頃から園の名称の冠に「練馬城址」という言葉が表記されなくなると、園内での城址の存在が薄れ、建物自体が西洋の古城を模したものであったものであったから、単に「古城」とも呼ばれるようになったのだと私は推察している。
 いずれにしても少なくとも築92年、開園時に完成していたのであれば築94年(令和2年現在)の建造物であるということになる。

 なおキャンペーンではこの中から、建物の用途名である「食堂」「喫茶」「展覧会場」「木馬の会」は除外し、「古城」は練馬城との混同が考えられる事から避け、残る「古城の塔」「古城ホール」のうち、古い方の「古城の塔」を当該建築物を指す言葉として採用している。

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近年は木馬の会事務所だった当該建築物

オーナーの藤田好三郎氏と設計者、戸野琢磨氏

 初期の豊島園は練馬城の城山の麓に石神井川の水辺が広がる景勝地で、藤田好三郎という人物が、自分と家族の静養地として購入したものを大正15年に庭園化して公開したのがはじまりだった、というのは以前ブログに紹介した通りだが、藤田好三郎氏が庭園の設計を依頼したのは戸野琢磨氏という造園家だった。

 大正15年の練馬城址豊島園の「設立の趣旨」とともに書かれた「組織設備の概要」の一部にこういう一文がある。

 之れ(藤田孝三郎氏)が設計に任じましたのは戸野琢磨氏で、氏は帝大卒業後に渡米コーネル大学ランドスケープ、アーキテクチュア科に入り、業を了へ更に大学院に進み同大学にて教鞭を取り数年前に帰朝しました。又欧州にも遊学し、特に伊太利で造園学を専攻した人物で我が邦に於ける斯界の権威者でもあります。斯かる次第でありますから其設備は一切俗悪に陥ることを避け趣味と実益とを得せしむることに力めたのであります。


 この戸野琢磨氏については彼を顕彰し、経歴を紹介したサイトは日本語では今のところないのだが、ワシントンD.Cに本部を置くThe Cultural Landscape Foundation(文化的景観財団)によれば、

He returned to Japan in 1923 and took a teaching position at Tokyo Agricultural University, where he eventually became head of the landscape architecture department.
(彼は1923年に日本に戻り、東京農業大学で教職に就き、最終的に造園学部長になりました。)

引用元:Paul Takuma Tono | The Cultural Landscape Foundation

とあるので、1923年(大正12年)に帰国した新進気鋭の造園家である戸野氏に藤田氏はすぐに豊島園の設計依頼をかけていたという事になる。
 なお、この藤田好三郎という人物は旧安田楠雄邸を建てた人物でもあり、この点から見てもいわゆる普請道楽タイプの富豪であった事が伺える。同氏についてはまだ十分に調べきれていないのだが、彼についても資料が集まればキャンペーンの方で紹介していきたいと思っている。

www.national-trust.or.jp

 そんな先見の明を持った藤田氏が豊島園を託した戸野琢磨氏は、その後に様々な造園設計を担当し、日本造園学会の名誉会員にも選ばれるわけだが、彼の作品で最も有名なものが、ポートランド日本庭園だ。
 ポートランド日本庭園は1967年に開園したアメリカのワシントンパークの中にある22,000 ㎡もの広大な日本庭園であり、年間30万人が訪れる観光名所である。庭園築造と維持管理・運営管理において1991年まで一貫して日本人造園家が携わる「ディレクターシステム」を行ってきた事でも知られ、北米に於ける日本の伝統文化の発信、文化交流の拠点としての役割も担ってきた。
 
 本キャンペーンの開始にあたって一つ疑問だったのは造園家である戸野琢磨氏が果たして建物の設計まで担っていたのか、であった。
 しかし、戸野琢磨氏は自身の事務所として野志村建築事務所設計を設立し、建築物も取り扱っていた事、当時の建築雑誌である「建築新潮」に「練馬豊島園諸建造物及平面図(二葉)(戸野志村建築事務所設計)」というものが掲載されている事が分かった事から、戸野氏自身が詳細図面を書いたかは分からないにしても、少なくとも庭園の施設として古城の塔を計画したのは間違いないと思われる。
 従って古城の塔は藤田孝三郎氏が開園し、戸野琢磨氏が設計した開園当時の豊島園を今に伝える施設であるとも言えると思う。
 この「練馬豊島園諸建造物及平面図(二葉)(戸野志村建築事務所設計)」については近日中に入手予定である。

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昭和5年の練馬城址豊島園

引用元:

受付終了【ふるさと文化講座】初公開映像上映と解説~昭和初期の遊園地「豊島園」・「花月園」他~ | 展覧会・イベントほか | 練馬区立石神井公園ふるさと文化館・分室

古城の塔と本キャンペーンの特徴

 さて、キャンペーンを立ち上げたものの、本件はchange.orgに掲載されている他の歴史的建築物の保全キャンペーンとは明らかに性質が異なる点が2つある。

 一つ目は、他のキャンペーンは基本的に「解体計画」が既に浮上しており、それに対する反対運動であるのに対し、古城の塔については解体するとも保全するともまだ特に何も決まっていない点だ。
 東京都公園審議会の資料には今のところ練馬城址公園の計画において、古城の塔の保全について言及している様子は無い。また、西武鉄道に問い合わせたところ「東京都と弊社間での木馬の会の建物に関する保全につきましては、従前も含め、現時点においても保全等について東京都と意見を交わしたことはないとのことでございます」との返答だった。

 そもそも古城の塔の敷地がいつ西武鉄道から東京都に譲渡されるのか、その時には既存の建物は全て解体されているのかいないのかも現時点では分かっていない。
 そのため反対運動としてではなく、練馬城址公園の計画が進む中で間違って解体されないように、西武鉄道にも東京都にも保全して欲しい事を求める、というのが目的の一つ目となる。

 二つ目は、古城の塔が今までずっと豊島園の敷地内にあった事もあり、特に文化財等には指定されていない事だ。これには当該建築物が有名建築家による設計ではないという事もあると思う。あくまで戸野琢磨氏は造園家であり、古城の塔は庭園の一施設だったからだ。
 古城の塔は練馬城の城山の中腹に建てられた、西洋の古城を模したコンクリート建築物である。従って、同時期の建築物で文化財に登録されているモダニズム建築や帝冠様式の建物とは一線を画していると思われる。
 従ってもちろん建築物としての価値の検証も必要だが、古城の塔は極めて造園学寄りな建物であり、造園学を切り口に文化的価値を掘り下げる必要があると考えられる。それが目的の2つ目になる。

 なお、キャンペーン開始前の10月20日練馬区文化財の担当部署である練馬区地域文化部文化・生涯学習、および東京都の文化財の担当部署である東京都教育庁地域教育支援部管理課文化財保護担当電話でヒアリングを行った。
 ヒアリングした内容は「①古城の塔を知っているか」、「②文化財登録の可能性はあるか」、「③区文化財、都文化財、東京都選定歴史的建造物のどれが妥当と思われるか」の3点。
 練馬区の文化・生涯学習課は学芸員の方が応対して下さった。返答内容としては、①②については「地権者の意向が重要。文化財は地権者が保有する前提で、地権者に保全する意向があるかどうかが重要になる。それがないと対象にならない。」③については「それはどの組織が調査し始めてどの組織が登録するかの線引きは大まかにしかなく、区登録か都登録かは結果論。」とのことだった。
 一方で東京都の文化財保護担当は基本的に「ノーコメント」。それは、「文化財の保護というのは都民に言われてやるものではなく、文化財保護担当が学術的に価値を調べ、登録すべきものであるから。」とのことだった。

 そこでこのキャンペーンでは、市民の声として古城の塔を保全して欲しいという声を集めて届けると同時に、資料収集や情報収集に尽力し、この建築物の価値を再発見していくことも重要であると思っている。
 署名を関係機関に提出する時に、古城の塔の文化的価値を自信を持って伝える事ができる状態にすることを目標としたい。

今後のアクション予定

 10月27日にスタートしたこのキャンペーンだが、当面は賛同する皆様の署名を集めながら私と協力者の皆様で地道に資料を集め、文化的価値を証明していく事を主に行っていきたいと思っている。

 しかし実質私個人のアクションとしては調査・研究へ時間を割く事が予想されるので、街で立って署名を呼びかける、みたいな事はほとんどできないと思う。そこで、賛同された方から署名の輪が繋がるように、キャンペーンページのQRコードがついたチラシ等は早急に用意したいと思っている。

 今のところインターネットのciniiやJ-stageにある戸野琢磨氏関連の論文は一通り閲覧し、本来なら国立国会図書館等で論文収集もしたいのだが、残念ながら新型コロナウィルスの影響で、入館が制限されており、閲覧予約は少し先となっている。専門機関が持っている図書館の蔵書であれば予約なしでも見られる場合もあるが、基本的にそういう施設は平日限定、しかも閉館時間もかなり早いのが悩ましい。

 また「文化的な価値の発見」をする上では専門的な知見も必要としており、立ち上がったばかりのキャンペーンであるので、まずは私自身の人脈や協力者の方々のお知り合いを当たっている。
 こういった資料収集は複写代がかかるとともに、専門家に知見の提供を求める際は少額でもきちんと謝礼をお渡しするのが礼儀だと思っている。そこでまだ立ち上がったばかりで準備ができていないが、今後は寄付金を募る事も考えたいと思っている。

 

 一旦の目標は「パブリックコメントまでにキャンペーンを形にすること」パブリックコメントの時点で公園の計画を立てている人々と、都民に古城の塔の価値が浸透しているようにしたい。それ以外にもやりたい事はあるが、最初から色々書くのもどうかと思うので一旦はここまで。進捗については適宜キャンペーンサイトやそれに関連するSNS(noteやFacebookページを作成予定)で発信できればと思う

 

 本キャンペーンを通して、都会に住む人々が自分たちの住む街の歴史や自然を見つめなおすきっかけとなったり、いまだにスクラップアンドビルドありきの行政の地域づくりに一石を投じるものになれば、尚嬉しく思う。

 

追記

以後、古城の塔については下記noteに更新していきますのでご覧ください。

note.com