練馬城址の大蛇伝説 ~石神井川には大蛇伝説がいっぱい~

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 当ブログ、「どこか、エコなフォークロア」はすっかりとしまえんネタが多くなってしまっているが、元々は一人旅好きで自然も歴史も好きな自分が、「なんとなく環境民俗学っぽい事を書いてみたい」と思って作ったものだ。

 ちなみに環境民俗学とは、民俗学」を自然環境の切り口から新たに研究する学問領域のことを言う。

 

 その視点は地方の村だけではなく練馬区にも向ける事ができるわけで、と言うよりも実は私が環境民俗学に興味を持った原因は練馬区にあるかもしれず、今回は今話題の練馬城の城山をはじめ、石神井川流域で「なんとなく環境民俗学っぽいこと」を書いてみたい。

 目次

 

練馬城址の城山の大蛇(五穀豊穣の神)

 

 「ねりまの昔ばなし」には「栗山の大蛇」という名前で、練馬城址の大蛇伝説が書かれている

 練馬城の城山の名称としては、矢野将監という人物を由来とする「矢野山」、松林があった事に由来する「松山」などがあり、実際豊島園開園前の大正時代のこの土地については、初期の豊島園設計者の戸野琢磨氏も

 

松林の眺望佳絶な豊島城址石神井川の清流

 

と書いており、松林が多かった事が伺えるが、大蛇伝説では栗が生えていた事に由来する「栗山」という地名で登場する。

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練馬城の城山

 その伝説は要約すると以下にようなものだ。

 

 練馬城が落城し、荒れ果てた城山が栗山と呼ばれるようになると、ある大蛇が住み着くようになった。大蛇は普段栗山の中にいたが、石神井川の支流の小川の谷まで時々下りてきた。

 人前に姿を現す事は無かったが、大蛇が下りてくると小川の湿地に大きな蛇が通った跡が残り、この跡が無いと付近の村は凶作になった。
 そこで付近の人々は毎年、大蛇の跡が現れるのを待つようになった。

 

  ここに出てくる小川については、豊島園周辺は石神井川流入する小川が元来複数あったので、どれの事を指すのかは分からない。

 大蛇の通った跡とは個人的な推測だが大雨の後の流路跡を意味し、普段流量の少ない小川が複数に分かれて流れるくらいに雨が降れば、日照りが続かない=凶作にならないという意味ではないかと考えられると思う。

 

 このように栗山の大蛇は豊作をもたらす五穀豊穣の神だったが、蛇は様々な性格を持つ存在であり、五穀豊穣の神以外にも、水の神、幸運の神だけでなく、ヤマタノオロチのように洪水や災害の化身であったりもした。

 練馬区には他にも様々な性質の蛇の話がある。

 

堰ばあさんの一本松(水の神と健康・長寿の神)

 練馬総合運動場付近の石神井川の護岸の桜並木に、一本だけ松がある事をご存じだろうか。あれは「堰ばあさんの一本松」という松で、現在の木は二代目だが「堰ばあさん」の昔話が伝わっている。

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堰ばあさんの一本松(二代目)

 この付近の糀屋(こうじや)という土地は、毎年川が氾濫していたので、人々はその治水のために堰を作ることにした。ただ堰を作る以上は番の役目を負う人が必要で、ある身寄りのないおばあさんがその役目を負う事になった。
 いつしかそのおばあさんは「堰ばあさん」と呼ばれ、人々から感謝され、大事に思われていたが、あるときそのおばあさんがいなくなり、代わりにおばあさんが座っていた座布団の上に蛇が現れた。
 人々はそれを堰ばあさんの化身だと考え、祠を立てお祀りした。
 いつしかその祠の下の石神井川の水は子供の咳にも効くと言われるようになり、多くの人が訪れるようになった。御利益があった人は幟旗(のぼりばた)を奉納したので、付近は大小ざまざまな旗がはたく華やかな場所となった。

 時は流れ、今では祠の隣にあった松の二代目の木が残るのみになっている。
 この堰ばあさんの話は明らかに水の神である蛇の話で、堰を管理してくれていたおばあさんが亡くなった時に、その存在を水神である蛇と同一視したという事だと思う。

 

 また「咳に効く」というのは唐突なイメージがあるかもしれないが、蛇は「健康」「長寿」の神という顔も持つ。というのも蛇は脱皮する生き物であり、脱皮してまるで生まれ変わる様子から人々は「再生」を想起していたのだ。その結果、「咳」と「堰」が同じ発音であることにあやかり、「咳に効く」という性格も付け加えたのだろうと思われる。

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現地にある解説


高稲荷の大蛇と早宮の白蛇・黒蛇(水害の化身と幸福の神)

  高稲荷にある高稲荷神社は、石神井川の低地に少し突き出した台地に稲荷神社が鎮座する場所だ。一度行けばなかなか印象に残る立地の神社だと思う。

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高稲荷神社

 実はこの神社の創建も大蛇が絡んでいるという伝説がある。要約するとこんな話だ。

 

 元々今の高稲荷公園には大蛇が住む、薄暗くももみじの美しい沼があった。そのもみじの美しさは見物に来る人もいるほどで、その中には美しい娘もいたので近くの篠氏の若者は娘に会いに、表向きは魚を取るために釣り竿をかついで沼によくやってきていた。

 ある日、若者が沼に来ると娘の姿がなく、探すと沼の奥の薄暗い淵に立っていた。若者が近づこうとすると足を滑らせ、沼の奥へと引き込まれてしまった。
 村の人は沼のヌシが引きずり込んだに違いない考え、若者の霊を慰めるために祀った。それが高稲荷神社のはじまりだった。

 

 これには災害としての蛇の姿が見られると思う。

 ちなみに、蛇なのになぜ稲荷なのかと思う方もいるかと思うが、狐は稲荷神の眷属(使い)であり神様そのものではないこと、そして稲荷神は農耕の神であることから蛇神との関係が元来強いので、決して不思議な話ではない。

 日本の神社は先に神様があるとは限らず、先に神聖視されていた場所があり、そこに日本神話に登場する神様を見出し祀っている場所も多くある。従って、高稲荷の場合は先に高稲荷の沼という神聖視されていた場所があり、後から勧請されたのが稲荷神社だったのだ。

 ちなみに稲荷神社も神社によって祀られている神様が違ったりする。主にウカミタマ神とウケモチ神が祀られているが、地元の神様を祀ってそれをいずれかの神様と同一神だとみなしている場合もある。

 ちなみに高稲荷神社の祭神はウケモチだが、ウケモチ神は日本神話の中ではツクヨミノミコトに切り殺されてしまう不憫な神様である。

 

 さて、高稲荷や練馬城址の対岸、早宮にはまた性質の異なる蛇の話がある。それが「白蛇と黒蛇」という話だ。

 

 早宮には芹沢家という旧家があるが、ある冬の日、突然天井から真っ白な蛇が現れた。蛇は部屋を横切ると真っすぐに北へ向かい、旧東中ノ宮(春日町一丁目)のあたりで消えていった。それ以降、しばらく芹沢家では良くない事が続いたという。

 一方その東中ノ宮のあたりには植松家という旧家があった。そこには一族の守り神である稲荷神社が祀られた丘があり、境内には大木があったのだが、老木だったためある日切り倒してしまった。

 すると毎年病人が出たり農作物が不作だったりと良くない事が続いたので、行者さんに占ってもらった。すると、大木の根元に住んでいた脇腹に赤い2本の筋がある黒蛇が住処が無くなったため植松家を恨んでいるという事が分かった。
 そこで植松家では池を掘って弁財天を祀り黒蛇に住処を与えると災いが無くなった。

 

 これらは幸福の神としての蛇の性質が見て取れる昔話だ。しかし、練馬区に伝わるこれらの話は蛇がいなくなったり、住処を奪うことで不幸になる話なのが興味深い。

 春日町付近には複数の稲荷神社があるが、そのうちの一つは確かに丘の上にあるものがある。これが黒蛇の住む大木があった稲荷神社かは分からないが、私たちは昔話の地と隣り合わせで暮らしているということが実感できる。

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三宝寺池のヌシ

  さて、練馬区内で最も有名なのがこの三宝寺池のヌシだろう。

 三宝寺池は区内の多くの沼が池が埋め立てられてしまった中で残っている数少ない池であるとともに、昔から善福寺池井の頭池と並ぶ「武蔵野三大泉」という湧水の豊かな池として知られており、神聖視されていた。

 三宝寺池は元々は石神井川本流の水源としてみなされており(現在の小金井から石神井台の区間は支流という扱いだった)、下流の四十の村々の人々から崇敬を受け、鳥や魚をとることも禁じられていたほどだった。

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三宝寺池


 それを代表するように、三宝寺池にはヌシとは別に鳥居を頭につけた魚の伝説がある。それは三宝寺池には頭に鳥居をつけた魚がおり、間違えてこれを捕まえると、頭がおかしくなったり、目がつぶれたり、腰を痛めるといった災厄に襲われる、というものだ。恐らく生き物を捕まえる事を禁じる中で発生した話だと思われる。 

 そしてヌシの話として伝わる話も、三宝寺池で魚をとることを禁じる事に繋がる話だ。

 

 明治初頭、三宝寺池である男が一人で釣りをしていた。
 あまり釣れないので、もう少し深みのところへ行こうとすると、松の大木のようなものが浮いていた。男がそこへ飛び移ると、急に動き始めて波がたち、みるみる池の底へ沈みはじめた。

 青くなった男はむちゃくちゃに泳いで岸に這いあがり、死に物狂いで逃げ帰った。

 

 このヌシは明治8年にも目撃されており、三宝寺に絵が奉納されている。一般の人が見る事はできないが、耳が生え、アゴヒゲを生やした大蛇の姿で描かれているそうだ。

 三宝寺池のヌシはまさに水神そのものであると思われ、水の源である三宝寺池を守るために人が手が加えてはいけないという警告と池そのものへの畏敬の念が具現化したものだと考えていいと思う。

 

 ところでこの三宝寺池には別の池に住んでいたヌシもいるらしい。それが「三枚の鱗」という話に伝わっている。これも明治初頭の話だ。

 

 秋の夕方、石神井村からやってきた人力車が稲付村でお客を下ろした帰り道、美しい娘が声をかけてきた。娘は石神井まで乗せて欲しいというので石神井村までやってくると、あたりに家の一軒もない三宝寺池の近くで下ろして欲しいと言ってきた。
 娘は男にお礼に立派な紙に包まれたずっしりとした重みのあるものを手渡し、
「家に帰るまで開けてはいけない。」
と言った。
 男は不思議に思ったが受け取ると、娘はフクロウの鳴く森の中へと消えていった。
 その頃の三宝寺池のまわりは昼でも薄暗く、淋しいところだったので、男は不思議さと心配な気持ちから娘を追いかけることにした。
 池のほとりで女の人を見つけ声をかけようとすると、女の人が振り向いたとたん、目が青白く光、口は裂け、髪を振り乱し、頭には角が生え、あっと言う間に池に飛び込んでいった。そしてその直後に池から大蛇が姿を現し、真っ赤な口を開けて水を吐き出しながら池の中央へと進み、消えていった。
 男は動けなくなって池のほとりに座り込んでいたが、やがてはうようにして森を抜け、石神井の村まで戻り、自分の見た事を村人に伝えた。村人に
「何か証拠はあるのか」
と言われ、男は手渡されたものを開けてみるとそこには金と銀の不思議な模様のついた大きな鱗が三枚入っていたという。
 その数日後、稲付村にあった弁財天が祀られる「亀ヶ池」が以前から小さくなっていたがとうとう無くなってしまったという噂が男の耳に入ってきた。

 

 この亀が池の弁財天は「亀が池弁財天」という名前で現在も残っている。

www.kanko.city.kita.tokyo.jp

 亀ヶ池の谷は石神井川とは別の川の谷だが、江戸時代に石神井川から引かれた用水路である石神井中用水」に亀が池から流れ出た川も合流しており、三宝寺池と亀ヶ池は間接的に繋がっていた。

 明治以降湧水の枯渇や埋め立てにより大小の沼が無くなっていく中で誕生した話としてとても興味深いと思う。

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穴弁天の宇賀神

 ところで三宝寺池には今でも年に一度だけ今でも実際にお会いすることができる蛇の神様がいることをご存じだろうか。

 それが三宝寺池の宇賀神だ。

 

 宇賀神は日本神話には登場しない中世以降に祀られるようになった神様で、人の頭に蛇の体の姿をしている。その正体は神話の五穀豊穣の神の一柱であるウカミタマ神と、ヒンズー教と仏教の神様である弁財天が習合したものだと言われており、宇賀弁天とも言われる。

 ちなみに、日本の弁財天は一般的にはイチキシマヒメという神様と習合して弁天堂や弁天社に祀られている事が多いが、宇賀神が弁天堂や弁天社に祀られている事もある。

 

 どこに祀られているかと言うと三宝寺池のほとり、「穴弁天」と呼ばれるほら穴の中だ。この洞穴は普段は入口の鍵がかけられていて入れないが、年に一度だけ、4月の上旬の厳島神社の例祭の日に入ることができる。

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穴弁天

 中は意外と奥行があり、その奥に三宝寺池の底で見つかったとされる人頭蛇尾の宇賀神の像が鎮座しているのだ。

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穴弁天内部


 ちなみに日本の神様は元来、偶像崇拝の習慣がない。しかし宇賀神はこのように像が多く作られ、まさに偶像崇拝の仏教と精霊信仰の神道神仏習合によって生まれた神様だと言える。

 


 このように練馬区内にも蛇一つとっても様々な伝説が残り、様々な神様がいたことが分かる。これはなによりも、石神井川の恵みによって昔の練馬の人々は生活し、石神井川三宝寺池を畏敬していた証だ。

  都市化によってすっかり都市河川化、公園の池化してしまったが、こういった昔話を知ることで、人々がその恵みに感謝していた時代をイメージしてもらえたら嬉しく思う。

 興味のある人はまずはぜひ、「ねりまの昔ばなし」を読んでみていただきたい。

 

www.neribun.or.jp